私の誕生日
私は8月10日で74歳になりました。スタッフには今年も盛大に祝ってもらいました。ただし、私の子供たちは(たぶん忘れている)長女が旅の途中のお酒をくれたほかは音沙汰なしでした。(長男は翌日、「それで幾つになった?」と聞いてきましたが。) ま、私も子供の誕生日を忘れていることがあるのでおあいこです。
私が生まれたのは昭和23年、戦後の混乱期でした。東北の岩手県の釜石市。田舎ですが大きな製鉄所があったので戦争末期に艦砲射撃の標的になり、父は会社も自分の家もすっかりやられてしまったショックで仕事を辞め、家は「今日の米もない」ような生活でした。そんな中ですから、母は本当に「生まれて欲しくなくて」お腹に漬物石を乗っけたり、階段から飛び降りてみたりしたそうですが「すっごい丈夫で(しぶとくて)」生まれてきてしまったそうです。妊娠中も母はヤミ屋をやって家族を養いました。満員の汽車の中で鼻血が止まらず失神しかけたこともあるそうです。生まれる朝はすごく暑い日で、ひとりで布団を担いで病院に行ったそうです。その道のりが大変すぎて「お産はどうだったの?」と聞いても「すぐ生まれた」としか覚えていない様です。(お産を大事に思うウチのお客さんとは大違いですね。)そんな誕生だったので、あまり自分の人生に希望をもつこともなく、「食べていく手段」があれば「人生は上等よ」というのが子供の頃からの私の信条になってしまいました。そういう意味では、60歳をすぎてから油が切れたように体が動かなくなり、あちこち手術(でも日帰り程度)したり、小さなメンテナンスは必要になりましたが、大きな病気もせず、毎日働いて、ご飯を食べて、お酒も飲める生活を続けていられるのは「すごい上等」な人生です。(この先、何があるかわかりません。今の時点では…..です。) 私と同じ頃に「助産院」を始めた助産師さんたちは、もう辞めている人も多いようですが、できたら今年できた「ねむの木」の家の借金は自分で働いて完済したいナアと思っています。(あと9年!)
6月、7月は各月13〜14人のお産で、搬送もあり、アタフタと過ぎてしまいました。産後ケアも長期の人はお断りしていたので何とか回りました。いつだったか1ヶ月に20人くらいのお産の予約があって、トレーラーハウスを借りて「おっぱい外来」をやったことがありましたが、「ねむの木」ができたのでその心配はなくなりました。ただし、人数が増えるといろんな異常もあります。ここでは2例目になる「癒着胎盤」の搬送がありました。さらに臍帯の卵膜付着だったので付根近くで切れてしまい、搬送して「用手剥離」する時に2000ccくらい出血したそうです。でも輸血もせず、翌々日には助産院に帰ってきました。麻酔の影響か、記憶があいまいのようでしたが、比較的元気で普通に退院していきました。
8月に入って或る日の夕方「一泊お泊まりしたい」という電話がありました。7ヶ月の男の子を連れた3人目のママでした。上の2人をご主人に預けてのお泊まりということで「何で???」という感じでしたが、保育園に入れて、仕事が始まったところで「夜泣き」でママが眠れないので…..ということでした。24時くらいまでは大人しく寝ていたのですが、それからは起きてしまい、こちらで預かりました。水分や、粉ミルクを飲ませたりして夜勤者も大変、私も4時から起きて替わり、オンブして「あかちゃんのねんね」の動画を見せたりしていました。いつもだと子守唄を歌いながら散歩すると寝てくれるのですが、外は暑すぎて蚊もいて出れず。ねむの木のホールと食堂を行ったり来たり。7時半にはママが起きてきてくれて「眠れましたー」とにっこり。「気持ちの余裕ができました」とのこと。それから赤ちゃんをお風呂に入れて、朝ごはんを食べ、朝日の中を出勤していきました。「行ってらっしゃい」と送り出しながら「すぐ過ぎてしまうから頑張ってね」と心でエールを贈りました。この道は私もいつか来た道でした。 (齋藤弓子)